干拓前の八郎潟は、人々に水の恵みを与えると同時に、水害による農作物の不作など深刻な被害をもたらしていました。干拓の構想は江戸時代からありましたが、浮かんでは消え、工事が行われることはありませんでした。戦後、食料の増産を望む時代背景に後押しされるように干拓工事は現実のものとなり、国をあげた未曾有の大事業がスタートしたのです。
大潟村ヒストリー
ここは、人々のチャレンジスピリットが築きあげた創造の大地。
かつて琵琶湖に次いで日本第2位の大きさを誇る湖であったこと、私たちの頭上を真っ白な帆を張ったうたせ船が往来していた頃の風物詩は、時代と共に写真や映像を通して出逢える郷愁の記憶になりました。
干拓工事によって姿を現したのは、無色で平坦な荒涼たる表土。
入植者たちは、希望と勇気を胸に大地というキャンパスに鮮やかな景色を描いてきました。
41年前に誕生した大潟村は今、季節の移ろいにあわせて緑から黄金に輝く広大な田園や色とりどりの草花、この地で育まれた命など沢山の色であふれています。
かつて琵琶湖に次いで日本第2位の大きさを誇る湖であったこと、私たちの頭上を真っ白な帆を張ったうたせ船が往来していた頃の風物詩は、時代と共に写真や映像を通して出逢える郷愁の記憶になりました。
干拓工事によって姿を現したのは、無色で平坦な荒涼たる表土。
入植者たちは、希望と勇気を胸に大地というキャンパスに鮮やかな景色を描いてきました。
41年前に誕生した大潟村は今、季節の移ろいにあわせて緑から黄金に輝く広大な田園や色とりどりの草花、この地で育まれた命など沢山の色であふれています。
大地誕生の歩み
移ろい
- 昭和32年 4月
- 八郎潟干拓事業着工
- 昭和37年
- 米の1人あたりの消費量が戦後のピークに達する。
- 昭和38年
- 干陸(かんりく)
- 昭和39年 9月
- 1番最初に湖底が現れた場所で、干陸式と祝賀会が行われる。
- 10月
- 大潟村発足
役場庁舎は秋田県庁内に設置
6世帯14人でスタートする。
- 昭和41年
- 全面干陸
- 昭和42年 11月
-
第1次入植者入村
- 12月
- 総合中心地に役場庁舎完成
- 昭和32年 4月
- 八郎潟干拓事業着工
発展する大地
全国から集まった入植者たち
年を重ねるたびに、大地創造の夢にかける人々が全国各地から大潟村に集まってきました。また、入植希望者も多く、昭和41年の第1次募集には定員の56名に対して、615名の応募があり、競争倍率が約11倍になったほどでした。
干拓の苦労と新農法への挑戦
入植者たちは、軟弱な地盤に悪戦苦闘しました。革新的な農業の象徴ともいえる当時の大型農業機械は、キャタピラがヘドロに埋まって動けなくなることが度々ありました。米の種モミをヘリコプターで空中から播く直播きなどの農法も取り入れましたが成功には至らず、昔ながらの手植えが行われました。そこに全国各地から集結した英知が加わり、未開の土壌は大きな実りをもたらすようになったのです。
未来へ〜大潟村の今〜
こうして新生の大地は、先進的な農業の発信地として成長しました。豊穣の大地は、米をはじめ、野菜、肉、大豆、果物などの農産物を育んでいます。そして美味しい食、美しい自然の風景を求めて、多くの人がこの地を訪れています。入植者が苦労の末に築き上げた土台は未来へと受け継がれ、全国でも類のない巨大な農地に更なる可能性が期待されています。
